「オメラスという理想郷を知っているか?」
これは、ドラマ「MOZU」に出てくる狂気の役「東」を演じる長谷川博巳さんが劇中で使う言葉。
ここで言う「オメラス」というのは、すべての事柄には犠牲者がつきものだという例えで用いられ、劇中では理想郷の維持にはある子どもの犠牲が条件で、たったひとりの子供を地下室に閉じ込めておくことで他の人々が幸せに暮らせるならと住人達は見て見ぬふりをしているというもの。
この「オメラス」という部分は、現在の「日本」と言う言葉にも置きかえられる。
沖縄県民の犠牲の上に成り立つ日本の防衛政策。立地自治体のリスクの上に成り立つ原発政策。未来ある子どもたちに無責任に借金を背負わせ続ける日本の財政政策。すべては、「今」という理想郷を維持するためにある。
日本の社会構造に同様かもしれない。自分自身、自分が不幸な時、幸せな人を見て良い思いを抱けないのと同じで、自分が幸せな時は、誰かが不幸なんだろうなという感覚は昔からあった。さらに、世界の現実を知っていくと思い当る節はたくさんあるというものだ。
身近な例で言えば、ワーキングプアーがそれであろう。牛丼屋で出してもらった定食は、実は20時間労働している声無き悲鳴を上げているアルバイトの人が作ったものかもしれない。自分は、それで腹を満たしてよい思いをしているが誰も自分を否定しないだろう。
しかし、昔であればこの地下牢に閉じ込められた子供は一生このままなのだろうが、現代ではそんなことはなかろう。情報化社会の発達により、あらゆる情報が瞬く間に世界を駆け抜け、そんな非情なことがまかり通っていると知れば、この不遇に共感し、救いの手を出してくれることもあるだろう。
でも、これは本来は政治の役割であるはず。強き者をたしなめ、弱き者を助ける。これを今の政治はできているだろうか。
先日、区議選の応援で東京5区入りした、野田前総理がこんなことを言っていた。
「市区町村議員には、2種類の犬がいる。ひとつは行政のポチ。もうひとつは有権者の番犬だ」
と。
あと1ヵ月で、統一地方選。政治家を志した以上、少なくとも私の周りにいる方々には、後者を目指してもらいたい。
私も、精進します。