衆議院議員手塚よしおWEB。立憲民主党 東京都第5区(世田谷)。都議1期、衆院5期、元内閣総理大臣補佐官。現在、立憲民主党幹事長代理、東京都連幹事長など。

2006年5月15日 「オカンとボクと、最後にドブネズミ」松田哲也

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「松田さーん。秘書日記もう書かないんですか?」
 手塚事務所の壊し屋・名和秘書(幾度となくテレビや電話を破壊)が色をなしてそう言った。
「いやっほれっ。親方が落選してから、松本剛明政調会長のところで秘書として働かせて貰ってるから暫くいいのかなと思って…」
「ダメです。今週中にお願いします」
一も二も無いにべも無い。一顧だにくらいしてちょうだい。毎晩遅いんだし。その豪腕ぶりと久しぶりに筆を立たせる緊張感でマイボールはリフトした。
 中原の鹿を見失った昨年の総選挙。『蟋蟀(こおろぎ)』が鳴いてたあの秋から早8ヶ月。一様に凍りつく冬を越してきた手塚よしおと私たち。あの日、心ちぎれて肩をすぼめていたっけ。しかし、ヒュルリラ・ヒュルリラさめざめと泣いてささくれて世を儚む、そんな演歌な世界に走るスタッフは一人もいなかった。
 一敗地にまみれてもそこは灼熱のラテン系。試合前にユニフォーム姿でビックサンダ-マウンテンに乗り諸手を上げてワーッとやってたWBCのチーム・メキシコのように笑いは絶えず、夜は焼酎グラス片手に「アナタガ・トゥキ(好き)ダカラー!」と叫ぶ韓流スターのチャン・ドンゴンのように情熱的に飲む。国会で審議されている「建物・食べ物・乗り物・子ども」の安全。手塚事務所では「飲み物」の安全が何より喫緊の課題か。あとは結婚。私も独身。「ふつつかもの」ですが宜しくお願いいたします。
 松本代議士のご厚情で秘書として預かって頂きながら、週末や朝の駅頭は手塚事務所の仕事に出して貰っている。こうして浪人中でも変わらない空気を吸って、忙しいけど充実した日々を送っていた。全ては手塚よしおの人間関係とスタッフのお陰。不安はなかった。桜が舞散るあの日の朝迄は。 
 「ガチャーン!」お皿の割れる音で目が覚めた。母が倒れていた。以前『ワクワク不惑日記』にも登場させた可愛い甥っ子と妹夫婦と母の5人で、前の晩中華街に行った。その時も一度苦しいと言っていたが、甥っ子の「ミ~シュジュ(母の名前)」幼児語連発大サービスにみんなすっかりやられて飛んでいた。着の身着のまま車に乗せて病院へ向かった。母はそんな時なのに車の中でアイシャドーを塗っていた。朦朧としてるから睫毛から眉毛までブルーのシャドーが広がって、昭和の時代の怪しい店にいる人みたいだった。医師は診て「すぐに入院して下さい」と言った。丁度、永田町では千葉補選が公示され自民と民主が全党挙げて激しく鎬を削り合う選挙戦の真っ最中だった。母は「早く仕事に行きなさい。大丈夫だから」と言った。帰り際、毎晩零時を回っても面会させて貰えるよう看護婦さんにお願いした。
「太田かずみです!明日はいよいよ投票日!宜しくお願いします!」
 約2週間、千葉で私も自転車をこぎまくり夜は駅で絶叫した。病院へ行くと
「選挙も大丈夫。大丈夫、大丈夫。これに勝って今度は手塚さんも大丈夫。絶対に大丈夫」
何の根拠も世調のデータもない母がそう言った。そして民進党は勝った。母も病気に勝って退院することになった。
 母が入院するのは自分の出産以来初めてのことだった。不安で何度も大きく溜息を付いた。何とか持ち堪えられたのは、浅田次郎の「天国までの100マイル」に続いて、手塚よしおライブラリーから勧められ読了していたリリー・フランキーの「東京タワー・オカンとボクと、時々オトン」のお陰だった。フランキーさんと実の母の物語。この北九州の親子の様々なシーンや言葉が深くストーンと胸に落ちていた。何度も泣きながら大爆笑する、そんな素敵な本だった。
「言った通り勝ったでしょ」
「まあ丁か半か。二つに一つだからね」
「四の五の言いなさんな」「一か八か釈迦十か。でしょ」
 そんな軽口をたたきながら病院を出て車を走らせると、不安定な春の雨は上がった。天が高い。民進党に吹き荒れた嵐も何とかくい止めた。その千葉で、雨に濡れてボロボロになって、風に立つドブネズミを見つけた。小さくて真っ黒だけど目だけは鈴のようにキラキラしていた。一緒に仕事をしたいと思った。学生時代以来20年振りに新歓をした。
 風に立つライオン~手塚よしおの肩にその彼も間もなく立つだろう。先輩がそうしてきたように。親から子へ永遠に襷(タスキ)が継がれていくように。手塚事務所の新戦力、ドブネズミに乞うご期待!

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