衆議院議員手塚よしおWEB。立憲民主党 東京都第5区(世田谷)。都議1期、衆院5期、元内閣総理大臣補佐官。現在、立憲民主党幹事長代理、東京都連幹事長など。

2004年12月20日 「回想録」松田哲也

 2004年8月2日(月)早朝、平日にもかかわらず私は大阪・梅田のサウナニュージャパンにいた。しばらくお酒を断っていた時も、毎年8月1日に行われる母校の同窓会だけには参加し、明け方まで飲んで、そこで少しの仮眠を取るのが習慣となっていた。
 同時刻、いつものように代議士は東京・西小山の駅頭に立っていた。この日の駅頭担当は、駅頭セッティングを1度もしたことがない中村公太朗秘書。私は、仮眠室でまんじりとも出来ずただただ時間が過ぎていくのを待っていた。しかし、この11年半続いている不断の「手塚よしおの駅頭」をなんとか彼が1人で守ってくれた。
 でもやはり、なんとか、だった。中村秘書は私に遠回しながら2度目の陳情を持ちかけた。
「春ちゃんいつから来ますか?」(最初の陳情は、秘書日記3月15日号をご覧下さい)
 私はその陳情を受けた。そのまま新幹線で東京に戻り、2月から長期バカンスを満喫していた平野春望秘書と祐天寺の居酒屋で対面した。覚悟を決めてこの会談に臨んでいた私に
「明日からまた頑張りまーす!」
いつも拍子が抜ける奴だなと内心思った。中村秘書の陳情は今回100%果たせたように思う。
 先代秘書の伊藤悠目黒区議は1人で国会から地元の業務まで完璧にこなしていた。全国会議員722人が抱える何千人の秘書のなかでも極めて稀な存在だった。そんな能力も体力もない私は、事程左様にチーム編成に腐心する事になる。今年は特に平野秘書の秘書のように彼に尽くした。和戦両様。時に「春望ホイホイ」を「中華料理曼荼羅」にしかけ、時に親しくして頂いてる郷建設さんからバールを拝借し家に乗りこみハイパーレスキューも体験する羽目に陥った。どっちの秘書・どっちが上司でショーと何度も思った。
 報われない秘書だった。そう先日、かの「曼荼羅」で3100円払う時、釣銭を嫌って100円だけ出して貰おうと思ったら
「松田さん、セコイ!」
と言われた。そうだった。平野秘書はタクシー代が1080円だった時、運転手さんに
「お釣りは入りません」
とは言わず
「80円はいいですか?」
と言う人間だった。完全に判断を誤った。
 このように、私のチーム編成の腐心は報われない場合が多い。が、つまるところこの世界はチームではなく秘書と代議士の関係は1対1。みんな「手塚よしお」に憧れ少しでも近づきたくて最初に扉を叩く。生殺与奪の任と全ての責は現在私にある。代議士の意を体現出来ているか、人の道から外れていないか、常に自問自答している。行く年来る年。行く人来る人。2004年、それぞれが「手塚よしお」から何かを学んでくれれば、私も報われ詰腹も切らずに済む。
今年もあと約1週間。来年の夏の首都決戦に向け、世田谷では関口太一区議、目黒では伊藤悠区議のポスターも一斉に貼り出され、手塚事務所の戦の備えは終わる。週末はクリスマス。そうだ。中村秘書から3度目の陳情が。
「メリークリスマスドライバーは平野秘書にお願い出来ませんかね?」
その結果は2005年のこの秘書日記でご報告するつもりだ。

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