衆議院議員手塚よしおWEB。立憲民主党 東京都第5区(世田谷)。都議1期、衆院5期、元内閣総理大臣補佐官。現在、立憲民主党幹事長代理、東京都連幹事長など。

2006年4月3日 「坂の上の雲、再び」蓮 孝道

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  • 2006年4月3日 「坂の上の雲、再び」蓮 孝道

 両親の仕事は専業農家です。幼い頃、父は選挙が近づくと仕事を放り出し、家に帰るのも遅くなりました。子ども心に私は、選挙と政治家が嫌いでした。
 私の生まれ育った山村は栃木との県境に位置し、手塚が学生時代に籍を置いた早稲田大学雄弁会発足のきっかけとなった「足尾銅山鉱毒事件」の被害を直撃した地域です。
 そんな歴史の影響か、いつしか私も当時運動の先頭に立った田中正造先生のように、故郷を生かせる政治をしてみたいと思うようになっていました。今では、選挙好きな父の気持ちも理解出来るようになってきました。
 そんな夢は心の奥に仕舞い込み、学生生活を謳歌していた2003年の夏、私は手塚よしお事務所の門を叩きました。「政治の道を志すなら、現役議員の姿を見ておくのも悪くはない」最初はその程度の気持ちだったと思います。
 事務所のドアの向こうには、それまでの人生で出会ったこともないユニークな秘書の面々。「こんな面白い人たちが議員を支えてるんだぁ」と、折り目正しいキリッとした秘書像を夢想していた私は少々困惑したものです。まさか後年私もその一員になろうとは夢にも思わずに・・・。
 あれから2年半の月日が経ち、手塚の周りには沢山のドラマが生まれました。その節目節目での手塚の表情は今でも瞼に焼き付いています。
 2003年11月、2期目の当選。厳しい選挙の末の再選に手塚の目は力強さに輝いていました。
 2004年7月参議院選挙、蓮舫参議院議員という盟友を得た手塚の表情はさらなる勇躍を期し、希望に満ちていました。
 2005年7月東京都議会議員選挙、民進党東京都連幹事長として先頭に立った手塚は、政権交代の旗印を見据えているようでした。
 そして2005年9月衆議院議員選挙、民進党全体にとっても厳しい判決の下された開票の翌日、学芸大学の駅頭に立つ手塚の表情だけは、涙に霞んだ私の目には焼き付けることができませんでした。
 「代議士」から「親方」と呼び方は変わり、手塚はぐっと身近になりました。捲土重来への牙城となった五本木事務所には、若造秘書の不可思議な仕事ぶりを見て何ともいえない表情を見せる手塚の姿があります。親方すいません・・・。
 私の目に最も多く焼き付いているのは、やはり駅頭に立つ真摯な表情をたたえた手塚です。初めてビラを配ったあの日から、手塚は私にとって「坂の上の雲」になりました。近頃わかったのは、当の雲自身も自らの目標に向かって進んでいるということ。「これじゃあ、いつまで経っても雲に手が届かないじゃない」などと愚痴をこぼしても始まりません。目標とはもとよりそういうものなのでしょう。
 そんな私も3月末日をもって手塚の懐から巣立ちます。この日記が皆様のお目にとまる頃には、群馬の故郷に帰り、夢であった来春の市議会議員選挙に立候補する準備を始めます。
 最後になりましたが、この場を借りて今までご指導ご鞭撻を頂戴した皆様に心から感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
(2003年9月22日「坂の上の雲」もバックナンバーでご覧頂けます)

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