衆議院議員手塚よしおWEB。立憲民主党 東京都第5区(世田谷)。都議1期、衆院5期、元内閣総理大臣補佐官。現在、立憲民主党幹事長代理、東京都連幹事長など。

2011年10大ニュース

2011年12月26日

 我が国の長い歴史の中でも、最悪の自然災害となった東日本大震災。行方不明者まで含めれば約2万人の命を奪い、その後の原発事故では多くの人々が故郷を失い、おそらくすべての日本人の考え方に大きな影響を与えた2011年3月11日。
 はからずも、この激動の1年を政権の中枢で仕事をすることになった偶然を、言葉では表現できないほどの重責を感じながら、今年も年末恒例の極めて個人的な10大ニュースをしたためてみました。
 この「手塚コラム」の更新が1年ぶりになった言い訳にはなりませんが、45年の人生で最も多忙で充実した年だったろうと思っています。お付き合い下さい。

1.東日本大震災
(人類史上最大級の自然災害として歴史に刻まれるであろう東日本大震災の発生。今年の漢字「絆」に象徴されるように、人々の考え方を変えた出来事でもありました。被災地で目の当たりにした壮絶な光景は筆舌に尽くしがたく、復旧・復興へのたゆまない努力を胸に誓いました。)

2.野田政権誕生
(ずっと政治活動を共にしてきた敬愛する野田佳彦氏が第95代内閣総理大臣に就任。自己実現であり、長年の夢が叶い、大きな政治目標が実現しました。多くの聴衆の心を動かした最後の演説は、決して平坦ではなかった野田さんこれまでの歩みがあればこそ。ただ、総理就任のお祝いもまだできていません。)

3.総理補佐官に就任
(「人生が変わっちゃったよ」という野田総理の言葉ほどでありませんが、私にとっても大きな転機となる補佐官就任でした。仕事場が議員会館から官邸へ移ることにはじまり、政治家としての仕事も一変。夢にまでみた野田政権。命懸けでお支えする覚悟です。)

4.統一地方選惨敗
(民主党結党以来、選挙の度に議席を増やしてきましたが、政権交代後にしっかり国民の期待にお応えできていないことを背景に、大変厳しい審判を頂きました。地元の目黒と世田谷でも同志数名が議席を失い、責任を痛感しています。)

5.予算委員会にて
(初めて衆院予算委員会に所属。しかも次席理事として平成22年度予算案や補正予算案の成立に向け、国会の最前線に立ちました。拘束された時間の多さは愚痴になりますが、テレビ中継でずっと顔がお茶の間に届き、よく声をかけて頂きました。)

6.内閣不信任案騒動
(菅前総理の進退をめぐる党内混乱に乗じ、野党が不信任案を提出。党内にも賛同する動きが広がり、執行部側の私も冷や汗をかきました。菅前総理の「一定のメド」発言により事態は収束したものの、政権党として未熟さを露呈してしまったと思っています。)

7.都知事候補擁立失敗
(引退を示唆していた石原慎太郎氏が翻意し、まさかの出馬に転じ、震災後の自粛ムード選挙で4選を果たした東京都知事選挙。昨年の夏以降、大物知事候補擁立に向け、水面下でその任を請け負っていました。石原知事の変心に翻弄された、とても悔しい春の記憶です。)

8.事務所出身者の明暗
(手塚事務所出身の地方議員はすでに4名。この春もいくつかの挑戦がありました。ギリギリで兄妹議員が誕生したり、たった40票差の次点で涙を飲んだり、禁じ手の離党カードが切られたり、無投票再選を果たしながらも病魔と戦ったりと、それぞれの人生を懸けた戦いがありました。子分の奮闘も私の力です。)

9.再び蓮舫行刷相へ
(野田総理誕生に向け、ずっと行動を共にしてきた蓮舫さんが、再び行刷相に就任。共に政府の一員として野田政権を支えることができることに大きな喜びを感じました。目に見えない連携プレーもたくさんありましたし、お酒もたくさん飲みました(笑)。)

10.愚息がスクスク
(今年は1度も海外に脱出できませんが、春の大型連休には和歌山のアドベンチャーワールドへ、夏休みにも富士サファリパークへと愚息と出掛けました。春には幼稚園入園、夏にはオムツも取れ、最近は野田総理がテレビに映ると父親を探すようにもなりました。愚息の成長に目を細めることの多かった1年でした。)

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