衆議院議員手塚よしおウェブサイト。立憲民主党 東京都第5区(目黒・世田谷)。都議1期、衆院4期、元内閣総理大臣補佐官。現在、議運筆頭理事、国対筆頭副委員長、都連幹事長など。

2005年4月25日 「あの日から」井上裕美子

 3月末、宅配便が届きました。送り主は三輪一登、品名は「いかなご」。相変わらずの丸っこい字が春を告げています。何度かこのHPにも登場する三輪君は手塚よしおの初代秘書。現在は神戸在の彼は毎年春先になると彼のお母様手製のいかなごの釘煮を送ってくれます。関西の春の風物詩でもあるいかなごの釘煮を手塚もたいそう楽しみにしています。
 三輪君と私とは手塚の実家である中華料理店「樓蘭」でアルバイトをしていました。手塚との知己はそこで得たのですからアルバイトが人生を変えることもあるんだなあと思います。
 1980年代後半から、政治は変化の激流の中にありました。「山が動いた」の社会党の大躍進、いわゆるマドンナ・ブーム。そして大海の中に漕ぎ出す一艘の小舟でしかなかった日本新党の結党は、55年体制崩壊の引き金となりました。
 当時私は大学4年生で卒業、就職を控えておりました。「樓蘭」でのアルバイトも一応卒業し、のんびりと残り少ない学生生活を楽しんでいたある日、アパートの電話が鳴りました。当時は携帯電話なんてありません。ポケベルを持ってると、おおっ、と驚かれたそんな牧歌的な時代です。電話の向こうから手塚の声が聞こえてきます。
「卒業まで暇でしょ?俺、選挙に出ることになったから手伝ってくれないかな?」
「???」
中華料理店の若旦那も、とうとう錯乱したのだろうかと一瞬思ったのです。
「三輪も樓蘭辞めて手伝うって言ってるから」
三輪君まで・・・。
 とりあえず電話を切り、翌日首を傾げながら、選挙事務所、と説明された場所に行ってみたのです。自由が丘の坂道を上ると果たしてそこには瀟洒な洋館、と地下に車庫が。車庫から三輪君が出てきて、
「井上さん遅いよ、ハイ」
と手渡されたのは彼の性格を表すかのようにきっちり絞られた雑巾。ガレージ内の壁を拭け、というのです。白金に通う22歳の女子大生の私に。中では手塚本人もはたきや雑巾を手にして、掃除中でした。
「明日からユーベンカイの後輩や松沢さんのところの学生が泊まり込みで手伝いに来るんだ」
「松沢さん」は現神奈川県知事で当時は神奈川県議会議員の松沢成文氏のこと。「ユーベンカイ」が雄弁会で、そういえば手塚さんが早稲田の雄弁会の副幹事長だったと以前聞いたことがあったなあ、今年の夏は都議会議員選挙があるんだなあと思い出したのは一瞬後のことでした。
 車庫の掃除、これが私の政治の世界に関わるきっかけでした。
 後になって、手塚の兄貴分である小沢鋭仁代議士(当時日本新党細川護煕代表付)の推挙で細川護煕元首相(当時参議院議員)との面会(要は都議会議員候補公認面接)がかない、とんとん拍子に日本新党公認で、都議選出馬が決まったと聞きました。
 翌日以降ぞくぞくと学生が車庫事務所にやってきました。現在の手塚事務所スタッフも腰を抜かすような一癖も二癖もある、というか破天荒な面々です。手塚よしおの初挑戦は何から何まで学生とボランティアによる手作りの選挙でした。弱冠26歳の手塚自身も全てのことが初体験、とまどいはもちろん、山積する課題につまずきながら一歩一歩手探りで歩いていかなければなりません。
 この一見強面ぞろいのむさ苦しい若者達は、その苦労をモノともせず、というか苦労が逃げていくようなパワーで、手塚の都議選を支えることになります。今でも一人ひとりの顔がすぐに浮かんで来ます。その中には手塚に続くように既に政治家として歩き始めた人物や、今回静岡3区で新たに衆院選に挑戦することになった平島廣志氏の姿もあります。
 都議選中の逸話には事欠かないのですが、また別の機会にと思います。
 1993年、手塚よしおが細く険しい政治の道を歩き始めたのは26歳の冬の日でした。
 あれから12年が経ち、2005年、手塚の民進党都連幹事長としての試金石でもある夏の首都決戦に向けて、28歳の伊藤悠も手塚と同じ轍を踏み歩き始めています。私もこの夏、35歳になります(涙)。

秘書日記

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