衆議院議員手塚よしおウェブサイト。立憲民主党 東京都第5区(目黒・世田谷)。都議1期、衆院4期、元内閣総理大臣補佐官。現在、議運筆頭理事、国対筆頭副委員長、都連幹事長など。

2010年9月6日 内野席「真夏のサンタクロース」松田哲也

 観測史上最も暑かった今年の夏。テレビを付けると、甲子園球場では沖縄のオバアや子どもたちの願いを胸に、興南打線が東海大相模の一二三投手に襲いかかっていた。
 6回迄に13得点。しかしそれでも、東海大相模の監督はなかなか彼をマウンドから降ろそうとしなかった。勝ち負けを越えて、今まで信じ作ってきたチームで最後まで自分たちの野球をただやらせたかったから。一二三投手もそれに応え、連投と猛暑と経験したことのない連打に意識が薄れ朦朧になりながらも、腕を振り投げ続けた。憧れていた松坂大輔も桑田真澄も立ち続けた同じマウンドで。
 人は夢や理念よりも損得、損得よりも感情・恩讐で動く。しかし、「甲子園」には損得や感情・恩讐といった影は見えない。日差しとそれを受ける選手があまりにも眩しくて。あるのは思いを共にする仲間と追い続けてきた夢であり、3年間の練習を思いを全て出しきりぶつかり合う躍動するエネルギーだ。そして、どちらが勝っても負けても「甲子園」は沢山の歓笑と感泣を残していく。だから子どもたちも憧れ、その世界を目指すのだろう。
 果たして政治の世界はどうだろう。それぞれの損得は時に脇に置き、恩讐はすっかり断って、夢や理念や政策を一糸まとわぬ全人格でぶつけ合い出し切っているだろうか。
 今から四半世紀前、「早稲田」界隈で一つの戦いがあった。激しくて清々しい政治があった。それを繰り広げたのは22歳の手塚現代議士。舞台は、日本中のあっちこっちの地方から青雲・風雲・凌雲・匹夫、四方の志だけをカバンに詰めて上京してきたような厄介な学生たちが集う早稲田大学雄弁会。そこに私も手塚さんもいた。
 当時、会は運営方針や理念・政策の違いから3つのグループに分かれ、どこにあんな時間とエネルギーがあったのか、連日明けても暮れても議論をしていた。野次も与太も灰皿も飛んでくるから喇叭を吹き返すこともあった。そうし続けないとその場に留まれなかったから。ただの意地もあり、「甲子園」とは対極の不健康な会でもあった。が、とにもかくにも3年間全てを出しきって、ぶつかり合った。そして、私たちがいたグループが多数を占めることとなり、少数グループに有能な人間がいても会の運営に一切関われない状況となっていた。
 4年目の夏、手塚さんは決断した。能力のある後進が、それを発揮できる場にする為にグループを割り、長きにわたり続いてきた3派体制を崩壊させた。学生の会ではあるが、国士も左翼も論客も根回し上手もお調子物も怖い先輩もいて、筆述できない争いもあったが、損得も恩讐も捨てて、いや抱えつつも、手塚さんは自らの理念を貫き通し新しい時代を創った。今もその文化・体制は続き、会では立志伝中の先輩となった。
 端なくも2人の人生が再び交じりあったのは、それから約10年、手塚さんが代議士に初当選した2001年。以来、秘書として地方議員として沢山の経験を積ませてもらった。そして今年の夏「甲子園」の球児たちと20年以上前の「早稲田」の学生たちを重ね合わせながら、その原点に帰ろうとストーンと心が静かに定まっていった。
 そんな夏に始まった民進党代表選挙。この選挙もその後の党運営も、中途半端な損得で折り合いを付けることなく恩讐をむき出しにすることなく、理念や政策を全人格をかけてぶつけ合っていくものにしなければいけない。どちらが勝っても、それが出来なければ、民進党は負けてしまうから。
 代表選挙の行方もその後の国政の行方も、来春改選を迎える私の戦いの行方も分からないまま、実家に帰ると妹夫婦たちが夏休みで泊りに来ていた。夜になって食事のあと、甥っ子がいないなと思って、昔私が寝ていた2階の部屋へと階段を上がって行った。
「あれ。電気がついてないな」
部屋に入ると、蒼い月灯りに包まれて窓を開け、網戸に手をあて耳を立てている甥っ子がいた。
「リンリンリンリンリン」
木が生い茂る実家では、この時期早くも蟋蟀(こおろぎ)たちが脱皮を終え一斉に鳴き出す。
「サンタが来るよ」
私を見て甥っ子はそう言った。
「シャンシャンシャンシャンシャン」
ソリの鈴の音色に聞こえるようだ。
「真夏の夜にサンタクロースか…」
澄み切った瞳と言葉に、明日の闇が剥がれていくのを感じながら、
「子どもたちの夢を照らす政治をしていこう」
夢のように過ぎた月日に感謝しながら、明日を誓った。

内野席・外野席

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